いにしえの五色ヶ原

いにしえの五色ヶ原

五色ヶ原(及びその周辺)にまつわる歴史上の出来事や明治・大正の五色ヶ原を歩いた記録を紹介します。


戦国武将 佐々成政の「さらさら越え」(1584年)

1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る出来事と言えるだろう。この「さらさら越え」のルートであるが、資料も少なく正確な道筋は不明であるが、一般には

常願寺川—>立山温泉—>ザラ峠—>中ノ谷—>刈安峠—>黒部川の平
—>針ノ木谷—>針ノ木峠—>籠川谷

と言われている(*2)。
ザラ峠は、五色ヶ原から北へ30分ほど行ったところ、この地に立ち戦国の武将の生涯に思い馳せては如何でしょうか。

サラサラ越えのルート

(*1)織田信長没後、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して、成政は信長の次男信雄を推して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。しかし、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲とすべて敵の領地。そこで考えたのが厳冬の立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える北アルプス横断であった。

(*2)その他の説として、針ノ木谷から北葛乗越を越え北葛沢へ出るルート、七倉乗越を越え七倉沢に出るルートがある。

参考文献 『秘録北アルプス物語』朝日新聞松本支局編(郷土出版社)


有料道路「越信新道」(明治8年~15年)

佐々成政の「さらさら越え」ルートは戦国の昔から忍びの道として使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道としてひそかに利用していたという。
この信濃野口村(現在の大町市)と越中富山を結ぶ山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道「越信新道」に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。有料道路としてその収益で道の維持を図ったが(3)、冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は明治15年に廃道となった(4)。

(*3)料金は立山温泉で徴収したという。また黒部側の平の小屋は昔「どうせん小屋」とよばれていたことから、銅銭、或いは道銭の意味で、ここでも料金を徴収していたものと思われる。

(*4)常願寺川から立山温泉、ザラ峠への登山道は古くからよく通られた道であったが、現在では廃道となっている。針ノ木谷から針ノ木峠への道も今では歩く人も少ない。針ノ木谷二股に「牛小屋跡」が地図に記載されているが、今はその跡形も無くなっている。

参考文献 『立山のいいぶき』廣瀬 誠著(シー・エー・ピー)


新田次郎の劒岳<点の記>(明治40年)

前人未踏といわれ宗教上登ってはならない「死の山」として恐れられた劒岳山頂に、三角点設置の至上命令を受けた、陸軍参謀本部の測量官・柴崎芳太郎とその案内人・宇治長次郎。劒岳登頂までの困難な道のりと不屈の闘志を描いた新田次郎の小説『劒岳<点の記>』はあまりにも有名な話です。
さて、この小説『劒岳<点の記>』にも、五色ヶ原が舞台となっているシーンがあります。

第二章「地形偵察」において、柴崎と長次郎、生田は立山温泉からザラ峠(2,348m)に上がり、そこを前線基地として天幕を張って雪がまだ多い五色ヶ原(約2,500m)、鷲岳(2,617m)、鳶山(2,616m)に登り撰点候補地を選んでいる。ザラ峠にある天幕への帰り道、三人は五色ヶ原で濃い霧にあい、長次郎は来た時の足跡を見失う。生田は長次郎の案内人の力量を一瞬疑うが、長次郎は日没前に二人を天幕へ導くのであった。これにより、柴崎はもとより生田からも長次郎への信頼はますます厚くなることになる。

柴崎らと長次郎の絆が、さらに深まった五色ヶ原。地図を作るために厳しい自然に立ち向かった男たちに想いを馳せってはいががでしょう。

※2009年にはこの小説が映画化(監督・木村大作)され、仲間たちの絆と厳しい自然が美しい映像として銀幕に映し出されています。

[追記]
映画「劒岳<点の記>」を観てきました。素晴らしい映像美です。役者さんたちや撮影スタッフが、その場所まで行って撮影している(いい加減な場所で撮影されていない)ということがよくわかり、観ていて飽きません。
五色ヶ原のシーンは、原作とは細かな点は少し異なりますが、三人の絆を深く結びつけるシーンとして描かれています。ちなみに、映画の冒頭で雪の五色ヶ原が大きく映し出されています。お見逃しなく!。


中村清太郎の越中アルプス縦断(明治43年)

登山家でもある画家の中村清太郎は,三枝威之介と明治43年(1910年)7月に針ノ木峠から針ノ木谷を下り,黒部川を黒部の主である遠山品衛門がかけたモッコの渡しを使い平に渡り,そこからザラ峠に上がって五色ヶ原に入っている。中村清太郎は五色ヶ原を相当気に入ったようで,著書『越中アルプス縱斷記 上』の中で,次のように語っている。

「唯見る前方(即ち南方)は目も遙かな一面の原で、ゆるく東の方黑部川の方へ傾斜してゐる。殘雪が急な峰の側面や縱谷などゝ違つて、ほしいまゝの處々に擴がツてゐる。そうしてそれから搾れた水であらう原の小凹凸に支へられて色々な形の池を湛へて限りない靑空と峰の雲とを浮べてゐる。この流れた樣なゆるい殘雪の置き具合は後立山々脈を步いて居た時から立山の南に接してよく望まれたので妙に心をひかれたのである。
(中略)
ナンキンコザクラ、ハクサンイチゲ、イハイテフ、タウヤクリンダウ、ハクサンフウロ、ハクサンチドリ、シナノキンバイ、バイケイサウ、シヤウジヤウバカマ、イハツメクサ、ゴゼンタチバナ、ツマトリサウ、イハカヾミ、ミヤマリンダウ、などの外名も辨へない草が各瑞々しい色を誇つてゐる。そうしてこのなだらかな高い大原が廻りの峯の三角波と微妙な調和となしてゐる。五色ヶ原の名のいはれを予は知らない、併しいかにも相應しい名だと感じた、そして神話の舞臺に最適してゐると思はれた。佐良峠を過る登山家はこの神仙境に遊ばんが爲めに僅かの勞を吝まざらんを疑はぬ。」

『越中アルプス縱斷記 上』

田部重治と五色ヶ原(大正2年夏)

ワーズワース、ペーターの研究者で知られる英文学者・登山家田部重治は、大正2年の夏、木暮理太郎(5)と槍ヶ岳から立山山脈への大縦走を行っている。田部重治は、芦峅寺のガイド春蔵とともにテントを張って絵を描きながら待っている中村清太郎(6)と五色ヶ原で合流する。そのときの五色ヶ原の印象をその著書『新編 山と渓谷』の中で語っている。

「のびのびした高原、咲き乱れた高山植物、残雪が流れてやがて形造る渓流などは、仔細に味えば、十日間見ても尽きることはなかろう。」「仰向けになると、窓口から星がきらきらと輝いている。全く、五色ヶ原の野営の一夜は旅をはじめて最も楽しいものにした。」

『新編 山と渓谷』

また、別の章(山に入る心)では、次のように五色ヶ原の夜を語っている。

「私の多く泊まった高原は八千尺以上の高位にあるものであったが、特に私にとって印象的な泊まりは、信濃と飛騨との国境にある双六の池のほとりのそれと越中五色ヶ原のそれとであった。」

『新編 山と渓谷』

田部重治と木暮理太郎、中村清太郎が楽しんだ五色ヶ原の夜、長かった山旅の疲れを癒したことでしょう。90年経った今でも五色ヶ原はその当時と何ら変わっていません。

(5)木暮理太郎(1874~1944)、登山家、ヒマラヤ研究家。 (6)中村清太郎(1888-1967)、山岳画家。田部らと合流し剱岳に登っている。

参考文献 『新編 山と渓谷』田部重治著(岩波文庫)