昭和33年、五色ヶ原にふたつ目の山小屋、五色ヶ原山荘が建設された。建築資材はすべて歩荷さんが運んだ。当初は32坪一部二階建て。30人でいっぱいになる小さな山小屋は登山者から「マッチ箱」とよばれ親しまれる。初代主人は志鷹静太郎と妻、花野。食糧難のため、宿泊客は米や味噌を持参した時代だった。
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3年後の昭和36年、約50坪に増築。さらに3年後の昭和39年、静太郎の長男央元と妻京子が跡を継いだ。若夫婦にとって試練の多い山小屋の仕事も夫婦の絆で乗りこえてきた。背中の赤ん坊は長男昌彦。
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天気の良い日は屋根で布団干し。昭和40年、約100坪に増築。2階の大広間「しゃくなげ」には大勢の登山者が雑魚寝した。1階の端には小さな三角部屋の「くろゆり」があった。あざみの天ぷらにランプの灯りは質素だが心のこもった山小屋のもてなし。手前は長男の昌彦。
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古き良き時代の家族とアルバイト 手前男の子は祐亨(左)昌彦(右)
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通信手段は無線機(トランシーバー)。鷲岳の裏側から芦峅寺と交信